少年時代
私は昭和40年1月30日倉敷市玉島で3人兄弟の長男として生まれました。当時我が家は現在の医院の場所で町工場を経営しており、母もその手伝いで忙しくあわただしい中で生まれたそうです。
父は村の鍛冶屋だった家業を発展させるために当時どんどん普及が進んでいっていた自動車産業に目をつけ、自動車部品製造の下請けを始めました。まずプレス機2台を中古で購入し、パート1人、母といった少人数からスタートしたそうです。その後自動車産業が伸びていくにつれて会社も成長し、一時は従業員数50人を越えるまでになっていきました。父はとても働き者で結婚までは正月も2日から働いていたといいますから、仕事に対する取り組み方は今の我々には想像もつかないくらいですが、その父の姿を見て育った私は仕事というものは全力をかけて取りくむ物だというということが強く頭に染み付いています。
そういった生活でしたから父はとにかく仕事優先で、夜も残業をよくしていましたから、空き時間はなく友達などのようにキャッチボールをしてもらったとかいう経験はありません。しかしたまの休みには家族でドライブに行ったり、GW、お盆、正月とまとまった休みが取れるときには旅行に連れて行ってくれました。ところがその旅行というのが行き当たりばったり旅行で、普段忙しい両親は旅行の計画を考えるといった余裕もなく、その当日になってどこに行くか決めるということがよくありました。朝まだ寝ている僕ら兄弟を抱いて車の後部席に乗せ、とりあえず出発。僕が目をさますと車はもう走っているのですが、父と母は「どこに行こうか。」「あそこは去年行ったし、ここは?」とか相談しているのです。そのうちに「伊勢のほうにいこうか。」などと目的地が決まります。そしてレッツゴー。現地の宿も現地で探すといったノリでしたね。しかし当時はそれでも良かったのですが、だんだんと高度経済成長時代の旅行ブームになってくると宿がいっぱいで取れない時がでてきて、布団部屋で寝かせてもらった時もありましたね。その分料理を良くしてくれたりしましたけど。
また釣りに興味を持った僕をよく海釣りに連れて行ってくれました。早朝まだ暗いうちに下津井の渡船屋さんに到着。船に乗って島に渡っている時に夜が明けてきて日が昇って来る。これがすごく気持ちいいんですね。波を切って走る渡船。頬に吹き付ける潮風。白々とした空に見えてくる朝日。最高の気分です。一度大晦日に行ったときは寒いわ、釣れないわと散々でしたがそれも楽しい思い出です。
僕の小さいころの印象を近所のおばちゃんとかが良く話してくれますが、とにかく目がくりっとしていて「なんのいたずらしてやろうか」という顔をしていたといいます。
しかし体は弱くよく病気をしました。もともと水が好きな性質らしく泳ぐのが好きで小学校1年生の時にはバタ足で10m以上泳げていたのに、2年の夏休みにリウマチ熱で入院。1年間泳げなく、体育もお休み。3年生で少し泳いでもいいよといわれた時にはほとんど泳げなくなっていました。その後徐々に復活、もともと運動神経がいいほうではないですが水泳は大好きです。
プラモ狂時代
とにかく小学校時代はプラモデルが好きで作りまくりました。お小遣いをほとんどつぎこんだといってもいいでしょうね。とにかくたくさん作りました。日の丸模型店というプラモ屋さんの常連でよく買いに行きました。戦艦、お城、戦車、車、飛行機、ジオラマ、刀なんかも作りましたね。そうです。武将の刀のプラモなんかもあるんですよ。お城のプラモは城の庭に芝の種をまいて芝を育てるようになっているのなんかもありました。細かい作業をするのが好きですし、手先の器用さには自信があります。中2で音楽にのめり込むまではよく作っていましたね。僕はガンダム前世代なのでいわゆるガンプラ(ガンダムのプラモデル)は経験していません。最近子供が欲しがったのでガンプラを買ってみると実によくできていますね。びっくりしました。まず接着剤がいらなかったり、部品ごとの色がほとんどできあがっていて組むだけでそこそこの物ができてしまう。隔世の感がありますね。でも小学校時代あれだけ作っても一つも残っているのがないというのも(^_^;)
小学校時代の夢
小学校時代はずっとロケットエンジニアになりたいと思っていました。ロケットに乗るほうでなく作る方になりたいところが僕らしいですね。テストが早く済むと答案用紙の裏にロケットの絵ばかり描いていました。東大のロケット工学研究所(そんな組織があるのかわかりませんが)に行くんだと思っていました。
運動音痴
とにかく運動は苦手でした。病気をして体育が一年間まったくできなかったこともあって走るのも投げるのもまったくだめ。マラソンはほとんど歩いていましたね。ですからスポーツテストは散々な成績でした。体力テストはなかなかいいんですけどね。得意なのは水泳と器械体操、跳び箱はかなり得意でした。球技はいまだに全然だめですね。反対にスキーは小学校からやっているのでいまだに大好きです。今一番お気に入りのスポーツはカヤックですが、忙しくてなかなか行けないのが悩みです。
ギターとの出会い
もともと音楽は好きだったのです。小さい頃習わされたピアノは嫌になって小4でやめてしまいましたが、クラシックやイージーリスニングは好きで自分のお小遣いでカラヤン指揮ベートーベン「合唱」とかチャイコフスキー「白鳥の湖」とかあるいはポールモーリアや、ニニ・ロッソのLPレコード(CDなんてものはない時代)を買って聴いてました。そういえば初めて行ったコンサートはニニ・ロッソだったなあ。いや知らない人が多いでしょうが水曜ロードショウのテーマとかを演っていたトランペッターです。哀愁のあるいい曲だったなぁ。父のステレオセットでよく聞いていました。クラシックは今でもシュトラウスワルツとか好きですよ。
中2の時夏休みの宿題で何か楽器で一曲弾きなさいというのがあって、何を思ったかギターで「禁じられた遊び」を弾こうと考え、叔父から古いギターを借りて練習して弾きました。といっても主メロを指1本で抑えあとは開放弦をアルペジオするという和音をまったく無視した演奏でした。今想像するとひどいものだったでしょうね。さてその辺からはまっていきます。友達が当時徐々に人気が出てきていたバンド「アリス」のライブテープを貸してくれました。これが大衝撃。なんて面白いんだ!って。まずは曲間の語りが面白いところから曲自体も大好きになってこれを弾いて歌ってみたいと思うようになりました。
それにはフォークギターがいるぞというわけで、親に頼みこみ試験の成績が良かったら買ってもらうという約束を取り付けてYamahaの一番安いやつ(一万五千円!)を手に入れました。これからですね。仲間と放課後残って楽譜見ながら練習しまくりました。最初はコードの変わり目ごとに歌が止まったりしてね。「アリス」は高校では「高中正義」、「カシオペア」へと替わっていきます。世はフュージョンブームでギターはフォークからエレキへと替わります。 ギターをやりたいやつばかりなのでベース奏者がいないバンドでした。変ですよね。ところが大学に入ってベースがやりたくなるんです。岡大は医学系は鹿田町にキャンパスがあってそこにも軽音楽部があるのですが、本学のほうの軽音ロックに入部しました。1年の時にいれてもらったバンドは短命でしたが、その後は4バンドかけもちしてたこともあるくらい音楽漬けでしたね。定期ライブ、学祭でのダンパ、合宿、思い出がいっぱいです。かけがえのない友達にも出会うことができました。卒業後はバンド活動から遠ざかってしまいました。自分の結婚式の時に再結成してパーティで演奏したくらいかな。今でもバンドやりたいですね。
タマシマンの音楽制作
話がいきなり現在に飛びますが、2005年JC(青年会議所)で環境渉外委員長になり玉島を代表するヒーローを誕生させようと番組作りを企画した際、音楽は自分で作ろう!と思い立って久しぶりに自作自演をしたのが「JC戦士タマシマン主題歌」でした。作曲ソフトの使い方がよくわからず、歌いこみもできないまま録音したので今聞くとかなり稚拙な出来です。しかしこれも当時の番組に合っていたのだと思います。それ以後、番組で使用するすべての曲を作ってきましたが、とうとうテレビ版は終了することになりました。でも番組が大人気になったおかげで、自分の作った曲を地域の子供たちがちょくちょく口づさんでくれていることがすごくうれしいです。「主題歌」、「新主題歌」、「ジャマシマンのテーマ」、「ジャマシマン音頭」といった歌ものもありますが、僕のこだわりは毎回登場する新怪人それぞれに違った曲をひとつのメロディからのアレンジで作っているということです。ジャマクラゲもジャマカブトもジャマキュラもジャマポワまでその中に同じメロディが流れていますが曲調は全然違うんだな。番組を見る際注意してみてください。このホームぺージ内にタマシマンの楽曲をダウンロードできるページを作りますのでそこから落としてください。サウンドトラックCDが欲しい人はさしあげます。\(^o^)/
歯学部へ
話を戻します。小学校時代のロケット工学の夢は中学校になってだんだんと現実的に変化してきました。父の工場を継ごうと考え始めたのです。それなら大学は工学部ですね。工業用ロボットの勉強をしたいと思うようになりました。さて高校は地元に行かず当時学区外の倉敷青陵高校へ入学。入試はけっこういい点をとったつもりだったんだけど中学卒業時失恋したものだからそのショックと新しい環境になじめず成績がた落ちに。^_^; 復活するまでけっこうかかりました。そんなこんなで高3を向かえ進路を決めるときが来ました。工学部と思ってましたが、そのころ自動車業界は大変厳しい時代で父は「継がんでいいから医学部へ行け」と言うようになりました。生物より物理で機械いじりの好きだった僕は最初医学部に抵抗がありましたが、下請けで苦労していた父の「お金をもらって感謝されるなんてこんないい仕事はないぞ」という言葉に「それもそうだな」と思うようになり、路線変更。ところが医学部はそんな簡単に入れるわけがない。まして○○医大といった単科の大学は嫌だ。総合大学がいい、岡大医学部に行きたいとか。まぁ身の程知らずというか。とんでもないというか。現役の時の成績ではかすりもしないので、はなから浪人するつもりで某隣県の国立大学医学部を受けて見事に落ちました。ハハハ。
浪人時代は京都で駿台予備校に通いました。はじめて一人で都会暮らし。最初予備校の授業のレベルの高さに感動したものの、だんだんと授業をさぼって京都観光へ出かけることが増えるようになりました。でも少しの間都会に暮らしたおかげで都会に対する憧れはなくなりました。やっぱ地元が一番。狙いはやっぱり岡大だな。
授業をさぼってた僕でしたが試験前3か月は集中して勉強しました。その介あって共通一次テストの成績は現役よりだいぶ上がったけど岡大医学部はボーダーぎりぎり。だいたい地方の医学部で旧帝大と張る偏差値なんて他にはないぞ。2次試験にそんなに自信はないし、どうしようかと考えてたら、ふと歯学部があるじゃないかと思いついた。手先には自信があるし歯学部にしよう!これで決まったわけですね。
だから最初から歯科への理想とかあって歯学部をめざしたわけではないのです。
大学時代
津島キャンパスでの教養課程の時代はほとんど軽音楽部に入り浸っていました。それなりに学生生活を楽しんで専門課程に。ここで勉強の山がのしかかってきます。鬼の解剖実習をくぐりぬけ、基礎系の実習が終わると臨床系の実習がはじまります。指導教官は厳しかったですが工作のような臨床系の実習は楽しかったです。当時は最終学年になると担当患者を受け持って指導教官の下で実際に治療をすすめていくようになっていました。歯科医としての自覚がでてきます。授業も今から思えば先進的な授業の多い大学でした。今になって当時の教授の偉大さがわかります。
卒業が近くなると卒後の進路を考え始めます。おおむね歯学部卒業者は大学に所属して臨床・研究の道をいくか、開業医に就職するかに別れます。僕はもともと医師、それも外科医になりたかったので口周囲の外科医である大学口腔外科の医局に入ることにしました。
大学病院時代
口腔外科では開業医では経験できないいろいろな症例を勉強させていただきました。口腔外科は抜歯から口の中の癌まで扱うところです。難しい抜歯や小手術はだいぶしましたし、交通事故であごの骨が折れた方の手術に入ったり癌の患者さんを受け持ったこともあります。
3年ほど大学にいた後急遽出向することになりました。前任者が急病で診療できなくなったと代わりに派遣されたのが香川県丸亀市にある香川労災病院でした。さてここが大変でした。
出向時代
それまで外科専門で一般歯科治療はアルバイトぐらいでしかやったことがなかったのに、いきなり午前20−30人とか受診されるのです。しかも診療台は古いのが2台しかない。アシスタントは歯科衛生士でなく看護士さんなのでほとんどの作業を自分がしなければならない。でもうてんやわんや。保険の入れ歯なんか作ったことがないので友達に電話してどんな手順で作るのか訊きました。午前の患者さんが終わったらもう昼休みが終わって午後の診療時間に食い込んでいます。看護師さんが「午後の患者さんに待ってもらっておくから早くご飯食べておいで。」って言ってくれて走って食堂に行く毎日でした。そんな日の明け方、寮で寝ていると突然ぐらぐらっと揺れて飛び起きました。地震だ!。結構揺れたけど落ち着いたのでまた寝ました。朝になり、看護師さんと昨日はけっこう揺れたね。などと話して診療に入っていると、大阪の辺は被害が出ているらしいよと噂がはいってきました。昼に食堂に行ってテレビを見てびっくり。大火事の映像や死者の数がどんどん増えていく。そうあの阪神淡路大震災だったのです。
さてピンチヒッターだった香川労災病院から、愛媛県の十全総合病院へ移動になります。
これを機に結婚もして、新生活を新居浜市で始めることになりました。新居浜はとにかく食事のおいしい町で、楽しい生活でした。
開業へ
もともと卒後5年したら開業しようと考えていましたが、そろそろ6年たってしまい開業が遅れているなと考えていた矢先、両親が昔から信頼している占いの方に診てもらったところ来年の2月までに開業しなければ、もう2年先までいい日和がないと言われたと連絡してきました。占いはあまり信じないほうですが、自分の中で目標時期を過ぎているなと感じていたのでこれをきっかけに開業に踏み切ることにしました。実はこれでえらい苦労をすることになるのです。この続きはまたしんくら歯科の歴史で書いていきたいと思います。
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